2019年09月09日
9月8日(日) 殿様街道(自然部)
江戸時代、松前から箱館(函館)に至る街道は二十七里あり、蝦夷地の幹線道だった。この中で福島町から知内町に至る内陸の道は、殿様も頻繁に通ったことから通称「殿様街道」として親しまれている。また、旧幕府軍による俗称「蝦夷共和国」建国のため、土方歳三らが松前城攻略を目指して駆け抜けた道でもある。
福島町住川地区から南西に山稜・峠越えで福島川河原に至る東西二本の街道を繋いで、歴史探訪と山野草観察をしながら時計周りに歩いた。参加は26名+フリー1名。
従来の東側街道入口から国道228号線側に200mほど戻ったところに、新しく刈り払われた道が奥に延びている。車道脇に「殿様街道ウォーク入口」の新しい看板もあった。栗畑を抜ける藪っぽい道を避けて、今回はこちらを利用してみる。9時55分に出発。

綺麗に刈り払いされた道を快適に進む。

道の脇で見かけた「クロバナヒキオコシ(黒花引起)」。「引起」は薬効のことを指すと言われ、行き倒れて今にも落命しそうな旅人を若き日の弘法大師が首を支えて引き起こし、この草全体を磨り潰した粉末を飲ませたところ、回復して元気に旅を続けさせることができたという故事に由来する。古来より「延命草」という名前の民間薬(健胃薬)として広く使われてきたらしい。

入口から300mほどで従来の道と合流し、樹林に覆われた尾根を緩やかに登って行く。道端には「アキノギンリョウソウ(秋之銀龍草)」。

緩やかな尾根を辿り、出発から35分弱でC230付近の砲台跡に到着。新政府軍が土方歳三率いる旧幕府軍を迎え撃つために設置した、大砲二門の陣地があったらしい。ここから、西側の谷の中を通るもう一本の街道を睨んでいたのだろうか。

起伏の少ない尾根で見かけた「ツルリンドウ(蔓竜胆)」の花。赤い実を付けるのは、もう少し先か。

出発から40分程で標高251.7mの二等三角点がある「知内嶺」に到着。この付近に国有林と道有林の境界線があり、国有林は昭和22年まで皇室の財産だったとのこと。山頂の一角に境界標石があり、北側の面に皇室財産であったことを示す「宮」の字(丸いデザイン)が刻まれているが、南のこちら側の文字(民有地の所有者名か)は生憎判読できないでいる。
![知内嶺[251.7m]一角の境界標石 知内嶺[251.7m]一角の境界標石](//img01.naturum.ne.jp/usr/s/a/n/sangakuclub2/20190908-G%E6%AE%BF%E6%A7%98%E8%A1%97%E9%81%93k%E7%9F%A5%E5%86%85%E5%B6%BA%5B251.7m%5D%E4%B8%80%E8%A7%92%E3%81%AE%E5%A2%83%E7%95%8C%E6%A8%99%E7%9F%B3k.jpg)
そのすぐ先に咲いていた「ミヤマママコナ(深山飯事菜)」。名前は、花の下唇(かしん)にご飯粒のような二つの白い隆起があることから付けられたと言う。

240mポコの樹間から、先週の会山行で登った大千軒岳の一角が望めた。

南側の福島川枝沢に急下降を始める手前、風通しの良い尾根で休憩を取る。

谷への下降路で見かけたキノコ①(ホウキタケかソウメンタケらしい)とキノコ②(「死の天使」と呼ばれる猛毒のドクツルタケらしい)。


「ヤマシャクヤク(山芍薬)」の実があった。

出発から1時間20分、旧国鉄・松前線跡の鉄橋遺構に到着。説明板によると名前は「茶屋沢鉄橋」で、線路の開通は昭和17年(1942年)11月1日、廃止は昭和63年(1988年)1月31日となっている。

鉄橋跡の上で全体写真を摂る。

最初の鉄橋を渡るとき、手摺りに絡まった「コクワ(=サルナシ:猿梨)」の実がなっていたが、未だ硬かった。

続いて二本目の鉄橋跡を渡る。

二本の鉄橋は二つのトンネルの間を繋いでいるが、どちらのトンネルもコンクリートで塞がれている。

枝沢に降り立ち、本流の福島川に出て上流に向かうと、水溜まり傍の泥地にヒグマの足跡が残っていた。写真の左上から右下に向かって進んだ時の前足らしい。

福島川の明るい河原で昼食(11:45~12:15)。自宅で茹でてきた冷たい素麺で優雅に食事を摂るベテランメンバーも…。

河原を離れて茶屋跡の台地に上がる。説明板には、「茶屋跡 安政四年二月三日 茶代100文」と書かれている(安政四年=1857年)。幕末期の1文は、現在の12.5円に相当すると言われているので、100文は約1,250円になり、鰻丼1杯や米1升に相当する額だったようだ。結構値高いのは、人里を離れた辺境の地だったためだろうか。

茶屋峠に向かって登っていく。道端で見かけた「ジャコウソウ(麝香草)」。

途中で、このコース中最大のブナの巨木が迎えてくれる。説明板によると、平成21年(2009年)の時点で樹齢約200年、樹高約24m、幹回り335cmだったという。

紫色のキノコ③(ムラサキホウキタケらしい)を発見。この株の周りに、これから成長する小さな個体多数が頭を出していた。

茶屋峠の南側斜面に広がる「ブナの森100年観察林」一帯の美しい樹相。

13時5分、茶屋峠に到着。近くの斜面で「キッコウハグマ(亀甲白熊)」が観察できた。五角形の葉が「亀の甲羅」に似ている(葉に頭と両手足を付けると亀の姿になる)ことと、花(写真の個体には未だ咲いていない)の細長い裂片の様子を、兜・槍の飾りや仏僧が持つ払子(ほっす)に使われるヤクの尾の白い毛で作った「白熊(はぐま)」に見立てたことから名付けられたという。

茶屋峠で全体写真を撮る。

住川地区に向かって緩やかな下り道を進み、13時45分にゴール。この日の最高気温は函館中心部で30.6℃、木古内で31.1℃、松前で29.4℃と真夏の暑さ。それでも辿った道は樹木で陽射しが遮られ、時折吹く風に助けられて、自然部の行事らしく沢山の山野草やキノコを快適に観察することができた。住川地区で挨拶ののち解散し、車ごとに温泉に浸かって帰宅した。
福島町住川地区から南西に山稜・峠越えで福島川河原に至る東西二本の街道を繋いで、歴史探訪と山野草観察をしながら時計周りに歩いた。参加は26名+フリー1名。
従来の東側街道入口から国道228号線側に200mほど戻ったところに、新しく刈り払われた道が奥に延びている。車道脇に「殿様街道ウォーク入口」の新しい看板もあった。栗畑を抜ける藪っぽい道を避けて、今回はこちらを利用してみる。9時55分に出発。

綺麗に刈り払いされた道を快適に進む。

道の脇で見かけた「クロバナヒキオコシ(黒花引起)」。「引起」は薬効のことを指すと言われ、行き倒れて今にも落命しそうな旅人を若き日の弘法大師が首を支えて引き起こし、この草全体を磨り潰した粉末を飲ませたところ、回復して元気に旅を続けさせることができたという故事に由来する。古来より「延命草」という名前の民間薬(健胃薬)として広く使われてきたらしい。

入口から300mほどで従来の道と合流し、樹林に覆われた尾根を緩やかに登って行く。道端には「アキノギンリョウソウ(秋之銀龍草)」。

緩やかな尾根を辿り、出発から35分弱でC230付近の砲台跡に到着。新政府軍が土方歳三率いる旧幕府軍を迎え撃つために設置した、大砲二門の陣地があったらしい。ここから、西側の谷の中を通るもう一本の街道を睨んでいたのだろうか。

起伏の少ない尾根で見かけた「ツルリンドウ(蔓竜胆)」の花。赤い実を付けるのは、もう少し先か。

出発から40分程で標高251.7mの二等三角点がある「知内嶺」に到着。この付近に国有林と道有林の境界線があり、国有林は昭和22年まで皇室の財産だったとのこと。山頂の一角に境界標石があり、北側の面に皇室財産であったことを示す「宮」の字(丸いデザイン)が刻まれているが、南のこちら側の文字(民有地の所有者名か)は生憎判読できないでいる。
![知内嶺[251.7m]一角の境界標石 知内嶺[251.7m]一角の境界標石](http://img01.naturum.ne.jp/usr/s/a/n/sangakuclub2/20190908-G%E6%AE%BF%E6%A7%98%E8%A1%97%E9%81%93k%E7%9F%A5%E5%86%85%E5%B6%BA%5B251.7m%5D%E4%B8%80%E8%A7%92%E3%81%AE%E5%A2%83%E7%95%8C%E6%A8%99%E7%9F%B3k.jpg)
そのすぐ先に咲いていた「ミヤマママコナ(深山飯事菜)」。名前は、花の下唇(かしん)にご飯粒のような二つの白い隆起があることから付けられたと言う。

240mポコの樹間から、先週の会山行で登った大千軒岳の一角が望めた。

南側の福島川枝沢に急下降を始める手前、風通しの良い尾根で休憩を取る。

谷への下降路で見かけたキノコ①(ホウキタケかソウメンタケらしい)とキノコ②(「死の天使」と呼ばれる猛毒のドクツルタケらしい)。


「ヤマシャクヤク(山芍薬)」の実があった。

出発から1時間20分、旧国鉄・松前線跡の鉄橋遺構に到着。説明板によると名前は「茶屋沢鉄橋」で、線路の開通は昭和17年(1942年)11月1日、廃止は昭和63年(1988年)1月31日となっている。

鉄橋跡の上で全体写真を摂る。

最初の鉄橋を渡るとき、手摺りに絡まった「コクワ(=サルナシ:猿梨)」の実がなっていたが、未だ硬かった。

続いて二本目の鉄橋跡を渡る。

二本の鉄橋は二つのトンネルの間を繋いでいるが、どちらのトンネルもコンクリートで塞がれている。

枝沢に降り立ち、本流の福島川に出て上流に向かうと、水溜まり傍の泥地にヒグマの足跡が残っていた。写真の左上から右下に向かって進んだ時の前足らしい。

福島川の明るい河原で昼食(11:45~12:15)。自宅で茹でてきた冷たい素麺で優雅に食事を摂るベテランメンバーも…。

河原を離れて茶屋跡の台地に上がる。説明板には、「茶屋跡 安政四年二月三日 茶代100文」と書かれている(安政四年=1857年)。幕末期の1文は、現在の12.5円に相当すると言われているので、100文は約1,250円になり、鰻丼1杯や米1升に相当する額だったようだ。結構値高いのは、人里を離れた辺境の地だったためだろうか。

茶屋峠に向かって登っていく。道端で見かけた「ジャコウソウ(麝香草)」。

途中で、このコース中最大のブナの巨木が迎えてくれる。説明板によると、平成21年(2009年)の時点で樹齢約200年、樹高約24m、幹回り335cmだったという。

紫色のキノコ③(ムラサキホウキタケらしい)を発見。この株の周りに、これから成長する小さな個体多数が頭を出していた。

茶屋峠の南側斜面に広がる「ブナの森100年観察林」一帯の美しい樹相。

13時5分、茶屋峠に到着。近くの斜面で「キッコウハグマ(亀甲白熊)」が観察できた。五角形の葉が「亀の甲羅」に似ている(葉に頭と両手足を付けると亀の姿になる)ことと、花(写真の個体には未だ咲いていない)の細長い裂片の様子を、兜・槍の飾りや仏僧が持つ払子(ほっす)に使われるヤクの尾の白い毛で作った「白熊(はぐま)」に見立てたことから名付けられたという。

茶屋峠で全体写真を撮る。

住川地区に向かって緩やかな下り道を進み、13時45分にゴール。この日の最高気温は函館中心部で30.6℃、木古内で31.1℃、松前で29.4℃と真夏の暑さ。それでも辿った道は樹木で陽射しが遮られ、時折吹く風に助けられて、自然部の行事らしく沢山の山野草やキノコを快適に観察することができた。住川地区で挨拶ののち解散し、車ごとに温泉に浸かって帰宅した。